昭和四十八年五月二十日 特別奉修委員
御道の信心の一番肝心要の所と言うべき、今朝から天地日月の心というものを、焦点にしなかったら、どんなに信心しよっても、それは肝心要のところを外しておるから、だめだいうぐらいでしたね、どうでしょうか皆さん、その肝心要の所に本気で精進させてもらっているだろうか、それがね本当にその、そこに精進をしなければダメ、天地日月の心なることこれが肝心、日月の心になること肝要だと、仰ってるんだとね、肝心要ですから
ここんところ、だからまあ天の心といや限りなく美しゅうなること、地の心というのは、
もう限りなく黙って.だま.受けて受けて受けぬくという事、日月の心というのは、あ..実意丁寧神信心のことですね。
ですから私それを、例えば清さんあたりの場合の信心をいうとこれは、大地の信心が、
見事の出来ておるという事ですよね、受けて受けて受けぬく、ですから一人でも物のが出来るような御陰を受けておる、徹底しておるね、だからこれに..え..天の信心が出来たら素晴らしか、この人大体非常に汚い人ですから人間は、もう非常にこすくて汚いです、そして少しばかり出来たら、もう豪い出来たごたある風な、こうあの不いん気を創るです。
けれどもほら、見てる方が受けていきよるからですね。
あの例えば出来るわけです。あの一人でに物が出来るように..ね、ですからあの勿論その、ん..天の心というか、あ..天の信心が出来なければ、最近では御神徳は受けられないとまで、私言ってるくらいですがね、ですからこれとそれとが一つに成っていくといったような、あの御陰、例えば昨日ある教会の大祭でしたが、こちらはもう、久留米地区でも一番裕福な教会ですし、大変お徳を受けた先生と普通では言ってる先生の所なんです。所が信心のない息子さん達が、非常に成功されてから、ああ..やっぱり次々沢山のやっぱりあの継ぐ気もあるそうです。コーヒーがあるという時、やっぱり息子さんの所から、あの来ておるという。あのずばぬけて偉い子供さん達がござるわけですから、出ける訳ですね。
それがあの昨日あちらの御大祭から、帰ってまいりましてから、もう若先生が、もう今日は気色の悪かったち言いますもん、「何がや」と言ったら、今日はもうとに角合楽の若先生.合楽の若先生ち.えらい大事にされた、そして帰りがけには親先生にも本当に御無礼ばっかいしてからて、もうとに角御無礼ばっかりしてなんてもう、あなた年は私どんよりももう、八十いくつであんなさいましようからね、ん..言われるからではないけれども
とに角、下にも置かんようなことだったそうです。
そしてからこんな大きなケーキをね、とそれから、あの( ? )出来とるでしょうか、あれを今度箱にズーと詰めて一箱、そおすっと.そのケーキをケーキもそら見事なケーキでした、あの奇麗に風呂敷に包んでから、「あの親先生に持って行ってください」ち言わしゃったげな、どげん考えたっちゃ気色の悪か、ち言うわけです、と言うのがですね。
もう云うならば、もうちょっとほなら五年になりますから、春.夏.秋大祭だけでも、そんならば..あ..五年ですから、どがしこですかね、年に二回づつ有って、ええ..いわゆる五年間あの私はもう事.神様事ですから、どこがお初穂少ないてんもう向こうと、と言うことせんです、もうこっち決めて通りの事プシャとする訳です。
いわゆる、向こうが向こうならこっちもこっちじゃったら、もう信心がないと私は思うとりますから、そいで私はいうならば五年間それを続けたです、づーっと..ん。
そしたらこの前から、私がそうすっと、今度の大祭ですね.からそいが普通になっているわけです、そして昨日はこちらがいったら、そういうなことです、ですからね、こういうことがあの、黙って受けるのと、限りなく美しゅうなると、二つが一所になってる生き方でないでしょうかね..ね、もう向こうが百円しょとなら、こちらも百円しとこう、ほなこの前二百円そいが面白かじゃん、百円の時もありゃ二百円の時もある、三百円の時もある、ちいうごたる風、ちいった( ? )な寝ぼけてあるじゃなかろうかと思うごたったです。
こらしかし、そこ一軒じゃないところを見るとです、やっぱ神様のご都合です、ここには.これあの.繁雄さんがお初穂整理される時、これだけは余所の教会のは全部取ってあるです、やっぱりあの参考になることだからてね、けれども..ん..ほならもう向こうから、五百円もっとるけん五百円、百円もっとるけん百円、というと.言うたんじゃね、けれどもほならこちらの事が、段々、段々本当の事が分かってきなさったのじゃないのでしょうかね、そして.え..こりゃただ事じゃない、合楽が明日御陰頂いた、そいだけ徳者ですから、やっぱある意味での力がが有るからこそ、たとえその力に、まあいうならば、あ..まっいうなら、尊敬の念を現しなさったのが、昨日の若先生が帰ってきてからね、とに角気色の悪かごたった、そしてこげなもんまで、親先生にことづけられたと言う訳なんですね。
これはなあ..あの隣せつ教会、田主丸教会なんかが子が出来る時に、一番のやわもてでしたですね.例えたの.ところが最近はどうですか、もう家庭の事情のことまで、相談に見えますです、私はもうこげなとこ絶対いかん、けども田主丸の先生はちょいちょい見えてから、もう九州にあちらの岡山の方から見えてる先生ですから、九州で親教会が博多ですけどれも、もうどこででもこげな話しまで、聞いて頂く所はどこもない、というてから話されるんです、ですからね、こちらが真なら真を貫けば必ず分かるということ..ね。それがほな五年かかじゃい、十年かかるじゃい分からんけれどもですよ..ね。
私は信心とはそれだと思う、同じに天地日月になることという.そのいうならば、今日私は、そのマルマル教会のそのお初穂の例を申しましたが、これは私が限りなく美しくいこうと云う事と、向こうが向こうなら、こっちはこっちというようなことではなくて向こうの生き方は、それを黙って受けていくということ、ですからもう天地が.の信心が一緒にね、頂けていくという感じがするです、ですからどうでもひとつ、こらもう信心のお道の信心の一番肝心要のところですから、ここをひとつ本気でね、天地日月の心になること肝要だというところを、ひとつ身に付けていかなければ、いよいよいけんと思うですね。
...どうぞ...
平成十七年 七月二十二日 渕上順子